家庭は憩いと前進の場

家庭は社会生活という嵐の中の港であることにまちがいはありません。(中略)

港にはいった船は、静かな憩いのうちにも、傷んだ帆をつくろい、エンジンを調整し、水や食料の補給をし、船としての内容を充実させつつ、つぎの出航への準備を怠りません。

人生の航路における家庭もそれと同様だと知り、そこをたんなる休息と消費と愉楽の場ときめこんでしまうことなく、家庭生活もやはりたゆみない前進の旅のたいせつなヒトコマであるという意識を確立したいものです。

この意識の確立さえできれば、もう家庭建設の基盤はおおむね完成したといっていいでしょう。

開祖さま【躍進】昭和44年2月号より

家族はみな如来の子

 私たちが人間として成長し、生きるうえでいちばん大事なことを教えてくれるのが家族ではないでしょうか。

身近なだけに、わがままが出たり礼節を欠きがちですが、逆に身近であるがゆえに「いけないこと」を遠慮なく指摘し、教えてくれるのも家族です。また、ご宝前や仏壇にお参りする大事な習慣をとおして、家族がともに成長していくことを教えてくれます。(中略)

「逆境を家族の支えによって乗り越え、生かされて生きる自己にめざめた」。そのような体験を聞かせていただくと、家族の有り難さをあらためて教えられます。また、社会を構成する最小単位でありながら、人間の元気の源となるのが家族なのだと気づかされます。

・家庭は、いわば人格形成の根本道場であります。そして家族は、人間一人ひとりの尊厳に気づかせ、自分の愚かさをありのまま教えてくれる如来の子と見ることができます。

家族一人ひとりが、それぞれに独立した如来の子。そのように受けとめると、肉親といえども自然に合唱礼拝の気持ちがわいてきます。家族みんながお互いを尊重し、思いやりのある家庭は、おのずから和やかな安らぎに満たされていくのでわないのでしょうか。

よく「家族を愛する」といいますが、「家族同士の礼拝行」の意味するところもそれと同じで、思いやりを忘れないということに尽きると思います。ともすると、家族への愛情は自己中心のなりがちです。

 たとえば子どものためによかれと思うことが、じつは自分の考えの押しつけである場合も少なくありません。また、家庭なのだからと甘え、つい感謝の言葉を怠ってしまうのです。(中略)

 愛情とともに、節度を忘れないのはもちろんのこと、根底に尊敬と感謝があって、それが言葉や態度に自然とあらわれていく___家庭を拝み、尊重するとは、そのようなことをうのではないでしょうか。

 頼んだことをやってもらったら「ありがとう」をいい、迷惑をかけたら「ごめんなさい」と素直に謝る。そんな当たり前のことも、親がわが子に向かってとなると、メンツにとらわれてできないものですが、相手を尊重する気持ちさえあれば、無理なくできるのです。

 いってみれば、わが子にではなく、かけがえのないいのちとしての如来の子に合掌礼拝するのです。

 たとえばどんなに気に入らないことがあっても、頭ごなしに叱りつけたり不機嫌な態度をとる前に「何か理由があるのでわないか」と思いやる。

 また「自分に落ち度はなかったか」とふり返り、相手の話によく耳を傾ける。

 こうした素直さ、謙虚さ、やさしい思いやりが、家庭を安らぎの場とし、和やかにします。

 そして、ほんとうに相手を思いやれるときは、みずからの尊厳に気づいているときです。

みずからの尊厳にめざめる者は、必ず他を尊重するのです。

会長先生【躍進】平成14年2月号より

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